双子織の復活を 蕨市塚越・錦町住民機神社訪れる

江戸時代の末、安政六年(1859年)に横浜が開港されると日本にはじめてイギリスの製の紡績錦糸と最新の化学染料が到来致しました。

蕨の機織りの先覚者である「高橋新五郎」は、これを入手し試行錯誤を重ね40番単糸引き揃いの「(塚越)二夕子(ふたこ)縞」を織り出しました。高い技術力に裏打ちされた品質、鮮明なストライプ柄の新しさから、斬新で珍しい織物と評判を呼び、上質な「よそ行き」として、その販路を拡大しました。

やがて、二夕子(ふたこ)は改良が加えられ、明治二十年代には六〇番手双糸(諸撚糸)を用いる「双子織」に、さらに同三十年代には上級錦糸の八〇番手瓦斯(ガス)糸を応用する「瓦斯双子」に発展し、明治三十六年大阪で開催された第五回内国勧業博覧館に出品して好評を博し入賞しました。二夕子縞から進化した(瓦斯)双子織は木綿でありながら絹様の光沢をもった薄地軽量のしなやかな和装スタイルで、多彩な配色施した縞糸(色糸)が駆使され、絣模様も併用したファッション性の高い都市的な流行品として一世を風靡しました。

綿織物業の衰退と共に消えてしまった蕨市の名産品「双子織」の復活を目指し、塚越・錦町両地区の住民が学ぶ創作教室「双子織夢工房」のメンバー約30人が1日、双子織を発明した2代目高橋新五郎をまつる機(はた)神社(蕨市塚越)を訪れた。

双子織の来歴などを知るのが目的で、高橋家10代目当主の高橋さんらの説明に熱心に耳を傾けていた。

神社は元々、新五郎が信仰していた「関東大権現」(徳川家康)をまつったもので、その後新五郎本人と妻いせが合祀された。家康像と新五郎夫妻像の計3体が収められ、いずれも市文化財に指定されている。3体は通常、毎夏開かれる「わらび機まつり」の時しか公開されないが、この日は特別に公開された。

高橋さんは「最盛期には、双子織は飛ぶように売れ生産が間に合わないほどだった」と当時の様子などを解説され、工房の創立メンバーの方は「機織りの歴史を子供たちにも伝えたい」と話された。

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