川口市の歴史

川口市の歴史

川口市は埼玉県の南端に位置する都市で、荒川を隔てて東京都に接し、江戸時代から鋳物や植木などの産業が発展し、その後住宅都市化が進みました。首都東京と接しているという利便性を活かしながら、ものづくリのまちとして発展してきました。

川口市に人が住み始めたのは、今から約2万年前といわれております。その頃、川口の南部は海面下にありました。北東部の台地には、旧石器時代の天神山遺跡や縄文時代の遺跡である新郷貝塚をはじめ多くの遺跡が残されており、海辺で生活を営んだ祖先を知ることが出来ます。

川口の名称は、旧入間川(現在の荒川)の河口に臨んでいたことが由来とも言われていますが、「義経記」には、1180年、源義経が兄頼朝の挙兵に加わるため、奥州から鎌倉に向かう途中、武蔵国足立郡小川口で兵をあらためたことと記されています。

戦国時代、川口は太田市や北条氏の支配地となりますが、江戸時代に入るとほとんどが幕府直轄領となり、代官の支配下に入りました。見沼溜井や見沼代用水、赤堀用水などの灌漑治水によって農業が一層発展致しました。又、市内を南北に貫く日光御成道は、徳川家康の霊廟を日光に移した1617年以降整備され、川口にも将軍の日光社参に伴う休憩所(鋳杖寺)や駅逓業務を行う問屋場がおかれました。

1728年の見沼代用水路の開さくによる舟運・陸上交通の整備に伴って商品の流通が盛んになり、今日の川口の発展の基となる種々の産業が興りました。鋳物産業は、江戸中期以降は技術の確かさと江戸町民の需要増大により、ますます盛んとなりその数もさらに増えて発展の一途をたどりました。又、承応年間(1652~1654年)に安行の吉田権之丞によって始められたという植木や苗木の栽培は、1657年の江戸大火によって焼野原となった江戸へ、植木や草花を供給して以来発展しました。さらに幕末期には、織物・釣竿が江戸を中心に商品として進出するようになりました。当時の川口町は、今の本町1丁目と金山町を中心に300戸ほどの家が集まっただけの小さな町で、現在賑やかな川口駅前や栄町・幸町付近は見渡す限りの田畑や湿地帯であったと言われています。

明治末期には鋳物工場が150軒ほどになり、荒川や芝川の舟運を利用して原料や製品運搬が行われました。その後、川口町駅や新荒川大橋ができると鋳物産業を中心に飛躍的発展をとげ、「鋳物の街川口」の名は全国に知られるようになりました。

昭和8年4月1日に、川口町・横曽根村・南平柳村・青木村の1町3村が合併し、昭和15年には、芝村・神根村・新郷村の3村を合併し、更に昭和31年に安行村、昭和37年に美園村の一部であった戸塚を合併しました。そして平23年10月11日に鳩ケ谷市と合併し、平成30年4月1日に中核市へ移行致しました。

(有)吉村不動産

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