蕨市立西小で戦争体験を語る会

「戦争は絶対だめ」空襲・疎開体験を語る

埼玉県蕨市の蕨市立西小学校 (児童数422人)で12月15日、7年前から続く社会科授業の一環として「戦争体験を語る会」が開かれ、市内在住のお年寄り5人がそれぞれの体験を語った。同小と市立西公民館が主催し、6年生の2クラスの児童67人が5グループに分かれ、熱心に耳を傾けた。

1945年3月の東京大空襲当時、住んでいた浅草の家が全焼した北町在住 (81歳) 講師は、空襲後に疎開した両親の出身地・秩父市での生活体験を語り、「意味もなく、たくさんの人が死んでしまう戦争は絶対だめ」と力を込めた。

講師は7人兄弟の3番目で、両親は下駄の鼻緒の製造業を営んでいた。父は中国に出征し姉が疎開するなどし、母らと6人で暮らしていた小学3年の時、大空襲に遭って、その日空襲が激しくなる中、近くの学校に避難をしようと家を出ると既に辺りは火の海だったという。弟を背負い、幼い妹2人の手を引く母を必死に追って学校に逃れ、幸い家族全員が無事だった。

夜が明け近くの隅田川をのぞくと、川面一面に死体が浮いているのが見えました、中には何かつかもうとするかのように両手を突き出した姿もあり、講師は「今思い出しても恐ろしい光景だった」と振り返った。

疎開先の秩父では、麦飯やサツマイモが食事の中心で母は弟を背負い、日が暮れるまで畑仕事を手伝っていたという。講師は「いじめもあったがめげずに学校に通い続けた」といい、学校には暖房器具がなかったため、休み時間には子供たちが一列に並んで前の子の背中を両手でこすったり、何度も万歳して体を温めたりしたとも語った。

戦争体験を聞いた児童(12歳)は「戦争で苦しむ人がいるいることが分かり、戦争がなくなることを願う気持ちが強まった」と話した。

数年前に心臓の手術をして今も健康に不安があるという講師は「元気でいるうちは子供たちに悲惨な戦争体験を伝え続けたい」と強い決意を口にされました。

 

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